3月11日。
3月11日という日は、私にとって、私たち家族にとって、特別な日。
東京に住んでいる姉が帰ってきてたのも、この日のため。
家族そろって、亡き父に手を合わせるのだ。
今から30年以上も前におきたある交通事故。
1歳3ヶ月の私と2歳4ヶ月だった姉には、当然何が起こったなど知る由もない。
そんな私たち姉妹に、母はあるウソをついて私らを育てた。
「お父さんは、アメリカにいるよ~」
なぜアメリカなのかはさておき(インドでも中国でもよかった)、純粋無垢な私は、その言葉を鵜呑みにし、いつの日か父が「ただいま!」と玄関からやってくる姿を想像し、信じて止まなかった。
が、小学3年生のある日、母に仏壇の前に座らされ、「真実」を告げられた。
母が父が生きているとウソをついていた真意は、父親という存在を幼い私らに自然に植え付けたいという気持ちからだと思うが、その方法は私にとって大成功で、全く記憶にない父のことを、私は私なりの方法で感じとり、まさに父は「私の心の中に生きている」という感覚をたやすく得ることができるようになったのであった。
たとえば高校受験の時。
受験番号の下二桁が「11」番、と知った瞬間、「お父さんが見守ってくれてる。絶対合格!」と確信し、その通りになったこと。
たとえば大学進学の時。
どの大学を受けるべきか迷っていたところ、ある大学の学長の名前が父とほぼ同じ(漢字4文字中、3字が同じ)というのを見つけた瞬間、「お父さんがここを受けろと言っている。ここを受験すべき!」と確信し、唯一受けたその大学に入ったこと。
という具合に、特に「11」という数字や父を想像させるなにかに出会うたび、私は多かれ少なかれ父を感じるのだ。
ある意味能天気な思い込みだが、それでも私は嬉しいのだ。父はいつも私の側にいてくれると思い込めることは、父と実際に過ごした時間があまりにも短かった私にとって、なにより幸せなことなのだから。
お父さん、見てる?
家族がこんなに増えたよー。